はじめに
相続放棄は、被相続人の借金などマイナスの財産を引き継がないための重要な手段です。家庭裁判所に申述して受理されることで効力が生じますが、「相続放棄をした後に事情が変わった」「騙されて相続放棄をしてしまった」といった場合に、その手続きを取り消すことはできるのでしょうか。
結論として、相続放棄の「撤回」は原則として認められませんが、一定の要件を満たす場合には「取消」が認められる場合があります。ただし、撤回と取消は法的に異なる概念であり、取消が認められる場面は限定的です。
本稿では、相続放棄の撤回と取消の違い、取消が認められる要件、具体的な手続き、期間制限について、民法の規定に基づいて体系的に解説します。相続放棄をした後に後悔されている方や、不本意な形で相続放棄をしてしまった方にとって参考となれば幸いです。
Q&A
Q1. 相続放棄をした後にやめたいと思った場合、撤回はできますか?
A. 民法919条1項により、相続放棄が受理された後の撤回は認められていません。相続放棄は相続に関する法律関係を確定させるものであり、自由な撤回を認めると他の相続人や債権者に不測の損害を与えるおそれがあるためです。したがって、「気が変わった」「やっぱり相続したい」という理由では、一度受理された相続放棄を覆すことはできません。
Q2. 騙されて相続放棄をしてしまった場合はどうなりますか?
A. 詐欺や強迫によって相続放棄をさせられた場合は、民法919条2項に基づき、家庭裁判所に対して相続放棄の取消を申述することができます。ただし、取消が認められるためには、詐欺や強迫の事実を立証する必要があり、単に「騙された気がする」というだけでは不十分です。具体的な証拠を揃えたうえで弁護士に相談されることをお勧めします。
Q3. 相続放棄の取消には期限がありますか?
A. はい、取消には期間制限があります。民法919条3項により、追認をすることができる時から6か月以内に行う必要があります。また、相続放棄の時から10年を経過した場合も取消権は消滅します。詐欺の場合は騙されたことに気づいた時から、強迫の場合は強迫が止んだ時から6か月以内が期限となります。
解説
1. 「撤回」と「取消」の違い
相続放棄の「撤回」と「取消」は、日常用語としては混同されがちですが、法律上は明確に異なる概念です。この違いを正確に理解することが、相続放棄後の対応を考えるうえで極めて重要です。
【撤回とは】
撤回とは、一度行った意思表示を、特段の理由なく将来に向かって効力を失わせることをいいます。たとえば、「やはり相続放棄をやめたい」「気が変わった」という場合がこれにあたります。相続放棄については、民法919条1項が「相続の承認及び放棄は、第915条第1項の期間内でも、撤回することができない」と明確に規定しており、いかなる理由があっても撤回は認められません。これは、相続放棄によって変動した法律関係の安定性を保護するための規定です。
【取消とは】
取消とは、意思表示に法律上の瑕疵(欠陥)があった場合に、その意思表示の効力を遡及的に消滅させることをいいます。相続放棄について取消が認められるのは、意思表示そのものに問題があった場合に限られ、民法919条2項がその根拠規定となります。撤回が一律に禁止されているのとは対照的に、取消は法律が定める一定の事由がある場合にのみ例外的に認められています。
2. 相続放棄の撤回が禁止される理由
民法919条1項が相続放棄の撤回を禁止している趣旨は、相続に関する法律関係の早期安定にあります。相続放棄がなされると、その者は初めから相続人でなかったものとみなされ(民法939条)、次順位の相続人に相続権が移転したり、他の相続人の相続分が変動したりします。
もし相続放棄の自由な撤回を認めてしまうと、既に確定したはずの相続関係が再び不安定になり、次順位の相続人や相続債権者など多くの利害関係人に不測の損害を与えることになります。また、相続放棄に基づいて既になされた各種手続き(遺産分割、相続登記、債務の弁済など)の効力にも影響が及ぶことから、法的安定性の観点から撤回は一律に禁止されているのです。
なお、この撤回禁止の規定は、熟慮期間(自己のために相続の開始があったことを知った時から3か月)内であっても適用されます。つまり、家庭裁判所に相続放棄の申述が受理された後は、たとえ熟慮期間が残っていたとしても撤回はできません。ただし、家庭裁判所に申述書を提出した後、受理される前の段階であれば、申述の取下げが認められる場合があります。
3. 取消が認められる場合(民法919条2項)
民法919条2項は、「前項の規定は、第1編(総則)及び前編(親族)の規定により相続の承認又は放棄の取消しをすることを妨げない」と規定しています。これにより、民法総則編および親族編に定める取消事由に該当する場合には、相続放棄の取消が例外的に認められます。具体的には、以下の事由が取消の根拠となります。
(1)詐欺による相続放棄(民法96条1項)
他の相続人や第三者から虚偽の事実を告げられ、それを信じて相続放棄をした場合が該当します。たとえば、「被相続人には多額の借金がある」と虚偽の説明を受けて相続放棄をしたが、実際には借金がなく多額の遺産があった場合などです。詐欺による取消を主張するためには、相手方の欺罔行為、錯誤に陥ったこと、因果関係を具体的に立証する必要があります。
(2)強迫による相続放棄(民法96条1項)
他の相続人や第三者から脅迫を受け、やむを得ず相続放棄をした場合が該当します。たとえば、「相続放棄をしなければ危害を加える」と脅されて相続放棄をした場合です。強迫による取消は、詐欺と異なり第三者による強迫の場合でも取消が可能です(民法96条2項参照)。また、強迫の事実を立証できれば、相手方の善意・悪意を問わず取消が認められます。
(3)制限行為能力を理由とする取消
未成年者、成年被後見人、被保佐人、被補助人が、法定代理人や保佐人・補助人の同意を得ずに相続放棄をした場合には、制限行為能力を理由とする取消が認められます。相続放棄は、法律上の重要な行為であるため、制限行為能力者が単独で行った場合は取消の対象となります。なお、未成年者の相続放棄は通常、法定代理人(親権者)が代理して行いますが、親権者と未成年者の間に利益相反がある場合には、特別代理人の選任が必要です。
(4)錯誤による取消の可否
錯誤(民法95条)を理由とする相続放棄の取消については、学説上議論があります。民法919条2項が「第1編の規定により」取消ができると規定していることから、錯誤による取消も理論上は認められうるとする見解がありますが、裁判例においては、相続放棄の動機の錯誤(たとえば「遺産がないと思っていたが実はあった」など)については、容易には取消を認めない傾向にあります。相続放棄という行為の性質上、安易に錯誤を認めると法的安定性が損なわれるためです。
4. 相続放棄の取消の手続き
相続放棄の取消を行うためには、家庭裁判所に対して取消の申述をする必要があります(民法919条4項)。相続放棄の取消は、当事者間の意思表示のみでは効力を生じず、家庭裁判所への申述という方式が法律上要求されています。
【手続きの流れ】
- 管轄裁判所の確認:被相続人の最後の住所地を管轄する家庭裁判所に申述します。これは相続放棄の申述を行った裁判所と同一です。
- 申述書の作成:相続放棄の取消の申述書を作成し、取消事由(詐欺、強迫、制限行為能力など)を具体的に記載します。
- 必要書類の準備:申述書のほか、申述人の戸籍謄本、被相続人の除籍謄本、相続放棄受理証明書の写し、取消事由を裏付ける証拠資料などを準備します。
- 収入印紙・郵便切手:申述人1人につき収入印紙800円と、連絡用の郵便切手が必要です。
- 家庭裁判所での審理:家庭裁判所は、提出された書類と証拠に基づいて取消事由の有無を審理し、認められれば取消の申述を受理します。
なお、相続放棄の取消が受理されると、相続放棄は遡って効力を失い、申述人は最初から相続放棄をしなかったものとして扱われます。その結果、改めて相続人としての地位を有することとなり、被相続人の権利義務を承継することになります。プラスの財産だけでなく、マイナスの財産(借金等)も承継する点に注意が必要です。
5. 取消権の期間制限
相続放棄の取消権には、民法919条3項により厳格な期間制限が設けられています。この期間を経過すると、取消事由があったとしても取消権を行使することができなくなりますので、十分にご注意ください。
(1)短期の期間制限:追認可能時から6か月
取消権は、「追認をすることができる時」から6か月間行使しないと、時効により消滅します。「追認をすることができる時」の起算点は、取消事由の類型により異なります。詐欺の場合は詐欺の事実に気づいた時、強迫の場合は強迫状態から脱した時、制限行為能力の場合は行為能力者となった時または法定代理人が知った時が起算点となります。
(2)長期の期間制限:相続放棄の時から10年
短期の期間制限とは別に、相続の承認または放棄の時から10年を経過した場合にも取消権は消滅します。この10年の期間は除斥期間と解されており、中断や停止が認められません。したがって、たとえ取消事由の存在を知らなかったとしても、相続放棄から10年が経過すれば取消権は失われます。
6. 実務上の対応と注意点
相続放棄の取消は、法律上認められている制度ではありますが、実務上の認容率は決して高くはありません。以下の点を踏まえた対応が重要です。
- 証拠の確保が最重要:詐欺や強迫を理由とする取消では、相手方の具体的な言動やそれによって錯誤に陥った経緯を客観的な証拠で立証する必要があります。メールやLINEのやり取り、録音データ、第三者の証言などが有力な証拠となります。
- 速やかな対応が不可欠:6か月の短期消滅時効があるため、取消事由に気づいた場合は速やかに弁護士に相談し、手続きを進める必要があります。時間が経過するほど証拠の散逸や記憶の曖昧化が生じ、立証が困難になります。
- 取消後の影響を慎重に検討:相続放棄の取消が認められると、再び相続人としての地位が復活します。被相続人に多額の債務がある場合は、取消によってかえって不利益を被る可能性もあるため、取消のメリット・デメリットを十分に検討する必要があります。
- 相続放棄前の慎重な判断が最善:取消の要件は厳格であるため、最も重要なのは相続放棄をする前に十分な調査と検討を行うことです。被相続人の財産状況を正確に把握し、安易に相続放棄をしないことが、後悔を防ぐ最善の方法です。
- 他の法的手段の検討:相続放棄の取消が難しい場合であっても、不当利得返還請求や損害賠償請求など、別の法的手段によって経済的な回復が可能な場合もあります。弁護士に相談することで、最適な法的手段を検討することができます。
弁護士に相談するメリット
相続放棄の撤回・取消に関する問題は、法的な判断が極めて難しい分野です。弁護士に相談することには以下のようなメリットがあります。
- 取消事由の判断:ご自身のケースが取消事由に該当するかどうか、法的な観点から正確に判断します。
- 証拠収集のサポート:取消の立証に必要な証拠の種類や収集方法について、実務経験に基づいたアドバイスを提供します。
- 申述書の作成代理:家庭裁判所への取消の申述書を、法的に適切な形で作成します。
- 期間管理の徹底:6か月の短期消滅時効を徒過しないよう、迅速かつ計画的に手続きを進めます。
- 代替手段の検討:取消が困難な場合でも、不当利得返還請求や損害賠償請求など、他の法的救済手段を検討し、最善の解決策を提案します。
弁護士法人長瀬総合法律事務所では、茨城県内4拠点(牛久本部・日立支所・水戸支所・守谷支所)で相続に関するご相談を承っております。相続放棄の取消をお考えの方は、期間制限の問題もありますので、お早めにご相談ください。
まとめ
本稿では、相続放棄の撤回・取消について解説しました。要点を整理すると以下のとおりです。
- 相続放棄の「撤回」は民法919条1項により一律に禁止されている
- 詐欺・強迫・制限行為能力を理由とする「取消」は民法919条2項により認められうる
- 取消の手続きは家庭裁判所への申述によって行う
- 取消権には追認可能時から6か月、放棄から10年の期間制限がある
- 実務上は取消の立証が困難であるため、相続放棄前の慎重な判断が最も重要である
相続放棄は一度受理されると原則として覆すことができない重大な法律行為です。相続放棄をお考えの方は事前に十分な調査と検討を行うこと、また、不本意な形で相続放棄をしてしまった方は速やかに弁護士に相談されることをお勧めします。弁護士法人長瀬総合法律事務所では、相続放棄に関する問題について、初回相談から解決までサポートを提供しております。
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